『木野通信』は、本学の卒業生や在学生の活動、教員の研究、大学ニュースなどを紹介する広報誌です。
年2回発行しており、卒業生や保護者のみなさまを中心に広く配布しています。
また、表紙は芸術学部版画専攻を修了したツビンデン ティム 健人さんの作品「不二の現れ」が飾っています。同作品は「2023年度京都精華大学展(卒業制作展)」で学長賞を受賞しました。
木野通信 第83号
特集「いまこそ、人文学!」
木野通信 第83号「いまこそ、人文学!」
[特別対談]鷲田 清一氏(哲学者)×山田 創平(国際文化学部 学部長)
激動の時代に誕生し復活する人文学部
京都精華大学に人文学部ができたのは1989年です。年の初めに昭和天皇が死去し、6月には中国で天安門事件、秋にはベルリンの壁が崩壊した激動の年でした。
人文学部って、今は相当減ってますよね。かえって新鮮で、いいと思います。セイカの人文学部といえば、僕のイメージはまず、宗教学者の笠原芳光さんが教員でいらしたこと。学部開設時に学長を務めておられ、後に理事長までされたんですよね。物静かな方でした。美術系の大学で笠原さんのような方が学長をされたのが、ちょっと意外でもあってね。
「文と理」「実学と虚学」人文学めぐる二つの誤解
二つの大きな誤解があると思うんです。一つは「文理融合」という言葉が流行ったように「文」と「理」が対立するという考え方。これは大ウソで、(文系に分類される)心理学では自然科学の方法で実験をするし、(理系とされる)建築でも都市計画の分野なんて、ほとんど地域学やデザイン学でしょう。対象はもちろん、方法論からしても、文も理もないんですよ。人文学の「文」には、姿かたち、紋様という意味があります。だから人がなすことの仕組みやありようですね。文理の「理」だって、もともとは石の模様のことです。倫理の「倫」は人間界のことだから、まさに人間界の模様という意味なんですよ。
人間や社会の肌理(きめ)みたいなことでしょうか。
そう。だから文と理は本来同じ意味なんです。それらを分けた上で融合するなんて間違っている。医学もそう。実際の治療法は基礎医学や応用科学やけど、根本には「医の道とは、人を治すとはどういうことか」という思想が必要です。
なるほど、その通りです。
鷲田
正反対ですよ。「先端科学」というのは現代の科学的思考の枠組みのなかでの最先端を競っていて、新着雑誌の論文にしか関心がない。理学部の研究者はニュートンなんか読まない。つまり、特殊な専門領域のなかだけで新しさを競う学問なんです。自分の専門分野にはやたら詳しいけど、それ以外は素人です。そういう意味では、政治も経済も、社会や芸術も、いろんなことに関心を持ち、一つ一つの分野ではアマチュアかもしれないけど、それぞれの歴史も学び、それらを踏まえて整合的に考えるのが人文学だから、現実と向き合うという意味でこっちの方がはるかに実学なんです。
政治も経済も「文化」 体験を通じて探究する
実は、大学で扱う学問分野の相当部分は文学部にあって、間口がすごく広いんです。でも国や自治体の言う「文化」って定義が狭くて、古典的な芸術、音楽や文学、伝統芸能などに限られている。僕に言わせれば政治も文化だし、経済や商売のやり方だって文化です。国や地域によって全然違うでしょう。都市の景観や構造なんかも、パリとバンコクと台北ではみんな異なる。関西でも、大阪と京都の街並みはフィロソフィー(哲学)が違うでしょ。政治も文化、経済も文化の一つであり、それぞれに「やり方」があるということが後景に沈み、法や民主主義や人権など、ある意味グローバルな価値観だけで語ることの限界が、今回のガザ(へのイスラエル侵攻)でよく見えたじゃないですか。普遍的だと思われてきた人権思想が、実は普遍ではなかった。それも西欧発のカルチャーでしかなかったということが。だから今こそ、政治も経済も文化だという視点で論じることが必要で、そのためには人文学部に入れば世の中のことが一番よくわかるんじゃないかと(笑)。
そういうことも意識して、セイカの人文学部は、前回の設立時に「行動する人文学」とスローガンを掲げていたんです。同時に学際主義、国際主義、体験主義という3つの方針を打ち出しました。この体験主義はその後もずっと生きていて、うちの学生は在学中に必ず海外などへフィールドワークに行き、自ら計画を立てて調査を行うんです。
鷲田
いいですね。それは必修で?でも費用はどうするんです?
山田
そうです、必修で。留学先の学費は本学が出すんですけど、滞在費用などは学生負担で。そこをめざしてアルバイトしてお金を貯める学生もいて、カリキュラムの要になっています。お話をうかがっていて私自身はすごく納得するのですが、一方で今の高校生は将来への不安が大きく、「すぐに役立つこと」を勉強しないといけないと思い込んでいるところがあります。就職のためにワードやエクセルを使いこなす、仕事に使える英語を習得する、あるいは資格を取らなきゃみたいな…。そういうなかで人文学部に名前を戻して、ここで学ぼうと思ってもらえるのか、実は懸念もあります。最近の若い人のメンタリティについて、鷲田さんはどう思われますか?
歴史や世界の大きな地図に自分を「マッピング」する
まさにそうで、今、大学に社会から求められることといえば、外部資金をいくら取ってきたか、効率化は達成できているか、どれだけ社会貢献したか…とか、まったく産業社会の論理ですからね。
目の前にない世界を知ることは、人文学を学ぶ大事な意義です。僕がよくたとえるのは、海で溺れた時、周りに島も何もなければ空の星や太陽を見て自分の位置を知るしかない。それと同じで、歴史や世界の大きな流れのなかで自分はどこにいるのかを知ること。自分自身を大きな地図のなかに置き、「マッピング」することが物を考える時のよりどころになる。そのためには2000年以上前の歴史から今日までの流れも知っておいた方がいいし、日本だけでなく中国のこと、西欧のこと、アフリカのこと…今は直接関係なくても、ちょっと知っておけば、自分たちの将来を考えるヒントになる。世阿弥の「離見の見」じゃないけど、溺れている自分をもう少し大きいスコープのなかで見つめ、位置づけることが、時代に押し潰されないための反撃のやり方で、だから人文学は武器にもなる。大学のなかで最も「闘う学問」なんですよね。
山田
今のお話で思い出したのが、本学でダライ・ラマ14世(チベット仏教の最高位僧)を最初に講演に呼んだ2000年4月のことです。当時は来日について政治的障壁があったため、講演会開催への執拗な抗議や妨害があり、学内から開催への疑問の声も上がりました。担当者も日々揺れ動く気持ちがあるなか、当時の理事長杉本修一はこう説いたそうです。「大学の存在は国家よりも大きい。わが大学が国家の干渉に屈することがあってはならない」。日本と中国とチベットとか、近代国民国家の枠組みや対立なんて普遍的でもなんでもない。大学はもっと長い時間軸で、はるかに大きいことを考え、やってきたんだから自信を持ちなさい、と。セイカらしい話だと思います。
学問の大きさですよね。ハーバード大学なんか、アメリカの政府よりはるかに古いわけやしね。
「自分は」の枠を超えて「人は」を問う学問
自分に固有なもの、自分にしかないものは何か。自分は自分は…って、よく言われますが、僕らが「自分」と呼んでいるものって、すごく社会的に、あるいは時代のなかで編まれているものでね。僕がもし明治時代に生まれたら全然違う人間になってますよ。アイデンティティの問題って、それはそれで大事だし、否定はしませんけれども、そこにこだわり過ぎたら、かえって人間弱くなる。だって自分の内面を見つめても何もないから。そういう意味では、僕が今までで一番しっくりきた人文学の定義は、評論家の大宅映子さんがある講演で言われた言葉です。「死ぬとわかっているのに、人はなぜ生きていけるのか。その理由を考える学問です」って。おおーこれはわかりやすい、その通りだと。だから人文学をやれば、人はたくましくなれる(笑)。
山田
死ぬとわかっていれば何もしなくていいはずですが、そうではなく、いろいろ考えてしまいますし…。
どうせ死ぬなら、できるだけおいしい物を食べて…となりそうなものですが、昔の人たちはそうしなかった。それはなんでや?ということを学ぶわけです。先ほどの「自分とは何か」という問いはいつの間にか、自分は何を持っているか、何ができるかという問いにずらされてしまうんですよ。面接で「どんな資格を持っていますか」と聞かれるようにね。でも、自分というのは、何を所有しているかだけで語れるものじゃない。所有もするけど、人に支えられもする。人とチームをつくって共同して働き、助けたり助けられたり…のインターディペンデント(相互依存)な関係なのに、「私とは何か」と言った途端、自分に固有のものは何か、他の人にはない何を持っているかという問いになる。そうすると、ネガティブな答えにしかならないでしょう。
山田
たいして持っていませんからね。
だから「自分は」を問うのではなく、大宅さんが言ったように「人は」と大きな問いを立てる方が、人文学にはふさわしいと思うんです。
私も日々、学生と接するなかでそれを感じています。本学には不登校や引きこもり経験のある学生が結構いて、みんな最初は自分について悩んでいます。ところが一緒に書物を読んでいくと、過去にも同じことに悩んでいた人がいる。フィールドに出て調査をすると、自分の個人的だと思っていた問いが、社会的な問いだと気づく瞬間があるんですね。そうなると自分で勉強して卒論を書くところまでいき、卒業した後も自分なりの生き方や進む道を見つけられる。なので、「個人的なことは政治的である」じゃないですが、出発点は自分だけれども、それを社会化していくのが今の大学教育の大切な役割であり、私が日々やっていることなのかなという気はします。
加藤典洋さん(文芸評論家)が面白い話を書いていました。自分の講義で「社会問題とは何か」とレポートの課題を出したら、ある学生が「私が社会問題です」と書いてきたというんです(笑)。こんな私がいる、私がこんなままでいる。これこそが社会問題だって。素晴らしい、すごく正しい答えだと思いましたね。セイカの人文学部も、みんなが生きる力を身につける場所であってほしい。世界を見つめるために、今よりもう少し見晴らしの良い場所に立つための4年間になればいいと、僕は思いますね。
これからの時代を生き抜くための新しい人文学
人文学部 2026年4月 開設
● 言葉の力
● 自由な視点
ひとつのテーマにさまざまな角度からアプローチ
たとえば1年次の必修科目「人文学原論」では、「共同体」「他者」「所有」などといった人文学として考えるべきテーマについて、講義と議論をくりかえしながら学びます。歴史、文学、社会、グローバル、文化という多様な角度から物事を考える力を身につけ、自由な視点を手に入れます。
● リアルな体験
全員が半年間現地で調査する長期フィールドワーク
京都精華大学人文学部
「言葉の力」「自由な視点」「リアルな体験」を重視したカリキュラムと、人間の営みについて探究する5つのコースで、変化の激しいこれからの時代を生き抜く底力をもち、社会に羽ばたく人を育てます。
人文学科
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歴史コース
京都という歴史を学ぶのに絶好の場所を生かして、歴史上の人物の縁の土地や当時の街道に足を運び、現地調査を行います。
研究領域は古代から近代まですべての時代の日本史が対象。歴史に名を残す英雄だけでなく、当時を生きた民衆の視点からも史料を読み解き、過去の人間の生き方から現在・未来のあり方を提唱します。 -
文学コース
研究対象は、上代から近代までのあらゆる日本文学。小説や詩歌、戯曲、評論など多様な分野の作品講読や作家研究を行います。作品に登場することも多い京都を舞台に、現地調査を通じて学ぶことが特徴です。各時代に生きる人々の文化や精神を理解しながら作品を読み解き、「人間とは何か」という本質的な問いに迫ります。
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社会コース
家族、学校、ジェンダー、環境など、自らの悩みや疑問、身近な問題を入り口に、社会現象や人間の行動の要因を掘り下げていきます。教員には多様な分野の研究者がそろい、関心に応じて知識を深められる環境です。さらに、フィールドワークを通して、数値やデータの分析だけでは気づきにくい問題の本質に迫る力を養います。
国際教養学科
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国際文化コース
国際都市・京都、そして留学生が多い学内環境を生かして実践的に英語や語学を習得します。さらに2年次には、半年から最大一年間大学を離れ、語学学習に加えて土地の文化や社会課題を現地で調査。世界の課題に向き合う力、どんな国や地域でも自分らしく生き抜ける力を獲得します。
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国際日本学コース
マンガやアニメなどの大衆文化から伝統文化まで、多様な日本文化を、伝統と革新が同居する都市、京都で研究します。その魅力を海外に向けて発信できるよう、語学力の向上を重視していることも特徴です。国家資格である登録日本語教員の免許も取得可能。文化で日本と世界をつなぐ人を育てます。
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